【駿府・会津】徳川家康公(58)の堪忍袋の緒がついに切れた! 会津の上杉景勝公の重臣・直江兼続殿(40)から届いた一通の書状の内容に、家康公が激昂。「これほどまでの侮辱、武士の面目にかけて看過できぬ!」と、即座に会津征伐の軍を興すことを決断した。書状の内容は未だ極秘とされているが、漏れ聞こえる噂によれば、家康公の疑念を真っ向から嘲笑い、挑発するような前代未聞の毒舌が満載だったという。天下の静謐は一瞬にして崩れ去り、再び戦乱の嵐が吹き荒れようとしている!
「景勝に謀反の意あり」への返答がこれか!?
事の発端は、上杉家が会津で城を築き、武具を集めているという謀反の疑いに対し、家康公が釈明のために景勝公の上洛を求めたことにある。これに対し、執政である直江兼続殿が返信したのが、今回の問題の書状だ。 家康公の側近によれば、家康公は読み進めるうちに顔を真っ赤にし、最後には書状を投げ捨てて「田舎侍が、この家康を愚弄するか!」と叫んだという。
巷で囁かれる驚愕の煽り内容
書状の正確な文面は伏せられているが、関係者の話を総合すると、以下のような凄まじい煽りが含まれていたと推測される。
- 「景勝公が上洛せぬのは、家康公が勝手に疑っているだけのこと」
- 「鉄砲や武具を集めるのは、田舎の武士にとっては『嗜み』に過ぎぬ」
- 「上方で流行りの茶器を集めるよりも、我らは武具を集める方が性に合っている」
- 「疑うのなら、いつでも会津へ攻めてくるが良い。返り討ちにしてくれる」 まさに、天下の重鎮である家康公を小心者扱いし、正面から喧嘩を売るような内容だったというのだ。
堀秀治公らの密告が火に油
越後の堀秀治公らからも「上杉に不穏な動きあり」との訴えが相次いでいたタイミングだけに、この書状は決定打となった。家康公は「もはや言葉による説得は無用。武力をもって会津の増長を挫く」と宣言。すでに諸大名に対し、会津征伐への参陣を呼びかける動員令が発せられた模様だ。
直江兼続という男の不敵な賭け
なぜ、これほどまでに家康公を怒らせる必要があったのか。直江兼続殿は、家康公が会津へ攻めてくることを見越し、あえて悪役を買って出ることで、上杉の正当性を主張しようとしたのか。それとも、単なる自信の表れなのか。愛の字を兜に掲げる知将・兼続。彼が放った一通の書状が、日ノ本の運命を大きく変える引き金となったことは間違いない。
「筆は刀よりも強し、そして恐ろし」。直江兼続が綴った墨の跡は、そのまま戦場の血の跡へと変わろうとしている。本紙は、この怒りの軍勢が会津へ向かう一部始終を、引き続き命懸けで追跡する。
