【山崎・天王山】亡き織田信長公の仇敵・明智光秀公を討ち果たし、天下にその名を轟かせた山崎の戦い。羽柴秀吉公(45)は、自らの中国大返しによる迅速な進軍を勝利の鍵として喧伝しているが、本紙の独自取材により、その華々しい戦果の裏に隠された驚愕の事実が明らかになった。実は、決戦の最前線で血を流し、明智軍を粉砕したのは、秀吉公の直系部隊ではなく、摂津衆の中川清秀殿(41)と高山右近殿(30)の軍勢であったというのだ!
中国大返しの代償~秀吉本隊は足元がおぼつかない!?
備中高松城から京まで、数日で駆け抜けたという伝説の中国大返し。しかし、現地の兵士たちの証言によれば、秀吉公の直系部隊は、山崎に到着した時点で、あまりの強行軍に疲労困憊、まさにヘロヘロの状態だったという。 「槍を持つのもやっと、馬から降りれば足が震えて立っていられない者もいた」と、ある雑兵は語る。これでは、明智の精鋭を相手にまともに戦えるはずがない。秀吉公は、自軍の戦力外通告を悟り、ある大胆な賭けに出た。
摂津衆の意地が明智を呑み込む
秀吉公に代わって最前線に投入されたのは、合流したばかりの摂津の国衆、中川清秀殿と高山右近殿の軍勢だった。彼らは中国大返しの疲労とは無縁で、士気も極めて高かった。 激戦地となった円明寺川沿いで、明智軍の猛攻を真っ向から受け止め、逆に押し返したのは、右近殿のキリシタン部隊と清秀殿の摂津魂であった。彼らの捨て身の突撃が、明智軍の戦列を崩壊させ、勝利を決定づけたのである。一方、秀吉公の本隊は、後方の安全な場所で、陣を整えるという名目のもと、戦況を見守る時間が長かったという。
手柄の横取りか? 秀吉公の高度な情報工作
戦後、秀吉公は自らの迅速な進軍こそが勝利の主因であると強く主張し、中川・高山両殿の活躍を、自らの指揮下での働きとしてひとまとめに処理しようとしている。これは、信長公の正当な後継者としての地位を固めるための、高度なプロパガンダであることは間違いない。 しかし、現場を見ていた者たちの口は塞げない。「秀吉殿は、ただ座って勝鬨を上げただけではないか」という冷ややかな声が、摂津の武士たちの間で広まっている。
天下人への第一歩は、他人の褌で……
「猿は、他人の獲物を奪うのが上手い」。今回の山崎の戦いは、秀吉公の軍事的天才というよりも、むしろ自分は戦わずして他人に戦わせるという、恐るべき政治的手腕を証明したものと言える。 中川清秀殿と高山右近殿。この二人の真の英雄がいなければ、今頃、京の街には明智の旗が翻っていたかもしれない。
真実は、山崎の泥にまみれている。秀吉公が手にした天下の重みは、自軍の汗ではなく、他軍の血によって支えられているのかもしれない。本紙は、この作られた英雄の裏側を、引き続き冷徹に暴き続ける。これにて、山崎の戦い・真実の立役者報を締めくくろう。
